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幸せの勘違い「六道輪廻をぐるぐるまわる」

六道輪廻という言葉があります。死後の世界でどの世界に生まれるかを6つの世界で表しています。

6道輪廻の6のうち2つの世界で分けられます。3善道,3悪道といいます。

六道輪廻 の種類

3善道

  • 天界
  • 阿修羅界
  • 人間界           *阿修羅界は修羅界という場合もあります
                  *人間界と阿修羅界が逆の場合もあります

3悪道

  • 畜生界
  • 餓鬼界
  • 地獄界

となります。

冒頭、「死後の世界」と書きましたじつは「生きている間の世界」じゃないか? というテーマになります。 
幸せそのものを勘違いしているんじゃないか? ということも自分の体験で感じたので最後に書きます。

生きている間私たちの自我という視点から各世界を見てみます。

地獄界

本来自分という存在は、広々としたスペース、宇宙の解放感そのものなのに、それが極限まで縮まった世界
開かれた大地の上に、わざわざ小さな小屋を建てて、そのなかで押しつぶされそうになっている状態です。

しかも余裕がなくなっていて「こうなったら、目の前の壁を破壊するか、自分を破壊するかどっちかだ! 相手を殺すか、自分が死ぬかだ!」
ときどきなんでこんな事件が起きるのかということがあるとき、こういう世界に陥っていることがあります。
罪悪感、自己嫌悪、劣等感、怒り、悲しみ、嫉妬の感情の世界です。

餓鬼界

地獄界の身を焼くような苦しみにのたうち回っていたエネルギーも、次第に疲れ消耗してきます。少し力が抜けた状態で、ほんの少し自分と壁の間に隙間ができます。「少しくうかんができたから、もっとできる。もっと楽になれるに違いない。」とどんどん取り入れようとします。「この空腹感、欠乏間をみたせばいい」と思います。が、なかなか入っていません。

仏画ではこの状態の人を大きなおなかをした人間が細いのどをもち飢えに苦しんでいる姿で書きます。これが餓鬼です。

餓鬼は極めて自己中心的な存在です。自分だけが苦しい。こんな自分のことを周囲はもっと気を使って面倒を見るべきだ、というわけです。
しかし周囲が面倒を見ても、満足しませんし、感謝もしません。まだまだたりないのです。我がままの通用する親、兄弟、妻や子をまるで自分の奴隷のように意のままに動かそうとします。
猜疑心、貪欲さ、孤独感、放漫の世界です。

畜生界

動物(畜生)の特徴が現れる世界です。動物の中には人をいやしたり、盲導犬のように人を助ける動物もいますが、その動物は畜生には当てはまりません。「自分さえよければいい」という頑固な姿勢のことです。餓鬼界よりもやや苦痛は減っていますが、空腹感はのこっています。そして気に入ったもの(権力・金品・異性など)があれば、自分に引き寄せるためになんでもやるのです。
その結果、一時的に裕福になったり、権力を手に入れたり、満たされた生活送る場合があるのですが、当人の顔に幸せはありません。

人間界

畜生界では欲しいものを何でも手に入れるというという衝動がありました。その衝動が収まりを見せると分別が付いてきます。我慢することをおぼえ、ほしいものは本当にほしいのか考える余裕も出てきます。

そのような分別をもって、自己の安全を確保し、欲求を満たしていこうというのが人間界です。

この世界には限界があり「人のものを盗むのはよくない、だますのもよくない。でも人に親切にすることはいいこと」というのはハウツーであり愛ではありません。だから人間界はまだ十分ではないのです。道徳的な立派な生き方をしてもそこには何かが欠けています。その根っこが自己保身であり、自我の世界だからです。

しかし、この人間界は大きな可能性を持った世界です。分別と知性のちからによって絶え間ない輪廻の繰り返しに気づき、大いなる世界に向かう意思が生まれる場所でもあります。

これより下の世界は愚かさゆえに、これより上の世界では慢心ゆえに可能性が閉じてしまいます。

阿修羅界

人間界の分別や知恵が研ぎ澄まされると、感覚が鋭くなってきます。人の表情まで見抜けるようになってきます。あらゆることに注意が行き届き用心深く抜かりがありません。そんなとぎすまされた感覚の世界が阿修羅界。知的でスマートな世界です。阿修羅界の基本構造は競争であり戦いです。人よりも抜きんでること。富だけでなくかなたにある涅槃やさとりまで手を伸ばしています。

心の中はいつも「自分」と自分の所有物で占められています。
心休まるときがありません。しかし多くの場合、ドーパミンなどの分泌にいって、意欲や充実感を感じているので、それを幸せだと思い込んでいます

天界

阿修羅が、自分の知恵と用心深さと向上心と、奮闘努力によってついに願望を達成しました。経済的成功、社会的地位だったりします。その結果満足感、安心感、深い霊的洞察まで得ることがあります。地獄界ではまじかに迫っていた壁が宇宙大に広がっています。ただ、ひろがっただけで壁が消えたわけではありません。相変わらず、「自分」対「全体」という2元性が存在しています。

天界の意識状態は緊張が度を越して、希望と恐怖の境目がわからなくなり、一時的な安定感が訪れた状態です。したがってこの安心感はながくは続きません。成し遂げたものは、失う宿命にあり、それがこの世の定めです。

成し遂げたものを維持しようと周囲を注意深くみているともう阿修羅界です。

そのように6個の世界を行ったり来たりします。これを「六道輪廻」といいます

で、何の話?
私の経験していた幸せとは、阿修羅の世界のドーパミンが正体だったのではないか? で、ホントのことを言うと幸せとは程遠いことをしていたんじゃ? ということに(うっすら)気が付いたんです。
学歴社会からいい会社に入って出世するっていうのも阿修羅の世界だったのかもしれません。

向上心、自己統制、努力など一般的にいいとされているものをそれなりに継続して地位も収入もありました。が、10年先はわからないという不安もあります。

これは「幸せ」ではないと気が付きました。そして、そうこうしているうちに無理がたたって入院しました。この入院は転機となります。

入院して変わったこと

仕事は問題なく回っており、成績も落ちることはありませんでした。いっぽう、私は仕事から解放されゆっくり休養できました。

その時に週に1回営業所の報告に同僚(部下)がきてくれました。上司もお見舞いに来てくれました。これは週に1回の出社でいいんじゃないか? と思いました。私の気もいい感じでぬけました

学生時代から六道輪廻にどっぷりはまっていて、なまじ成功体験をつんでしまったためどうしたらいいか途方にくれました。結局会社をやめて再出発することにしました。入院してから4年後のことでした。

「変な人の書いた成功法則」

困ったことは起こらないという考えかたを手に入れました。
「すべての良きことが雪崩のごとく起きます」という他人の幸せを願うということをおぼえ、毎日のあいさつの時に「おはようございます」といっしょに「すべての良きことが雪崩のごとく起きます」と願っていました。

そうすることによって、毎日の生活が楽しくなっていきました。

ですが、当時の私に足りなかったものがあります。

つやこの法則

です。
つや、と見た目はパッとしなかった。
顔につやをだすという知識がなかった。見た目の服装もあるものを着る程度でみすぼらしいものだった。
天国言葉もつかえてなかった。

結局、心の中は変化しても、他人からみえるわかりやすい行動にうつせてなかったのです。

つやと見た目と言葉を気にしだすと運勢が飛躍的に上がります。

知らないうちに、うまく事が運ぶようになります。(しばらく気が付きませんでしたが少し時間がたったあと振り返ってみるとうまくいっていることがおおくなっていました)

天の神様がいるとすれば、天国言葉で心と天のつまりをなくすことによって
ヒントをもらえるようになります。

間違ったヒントではないのがミソです。(地獄界のいる人が聞いている声は間違ってます)

いろいろ書きましたが、結局のところ

まとめ

世間一般で正しいとされているものは正しいことばかりじゃない

天国言葉をいったり、顔につやをだすとたのしくなってやる気がでてくるのでおすすめ

って話でした。 いじょうです。 

参考:さとりの授業 阿部敏郎

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この記事を書いた人

斎藤一人さんの「変な人の書いた成功法則」で人生を救われた人。12年間の会社員生活ののち妻の借金が発覚。離婚→再婚し、日々斎藤一人さんの教えを実践しています。ニートの娘がいる。

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